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「七つの大罪」Vol.7 飽食編 プログラムノート

【飽食編プログラム】
①F. ショパン:ワルツ第3、10、14番
②スウェーデン民謡
③F. ショパン:幻想即興曲
④F. クライスラー :愛の悲しみ
⑤W. A. モーツァルト:トルコ行進曲第1楽章
⑥モルヒネ
⑦F. クライスラー:愛の喜び

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【飽食編プログラムノート】

▪️F. ショパン:ワルツ第3, 10, 14番
要するに、私は満腹中枢が完全に崩壊した女なのだと思います。

人並み以上に多くの事を経験して来たというのに、まだまだ全然お腹がいっぱいにならないのです。

・週末ごとにヨーロッパ中の異なった街の豪華なホテルのベッドで目覚める生活をしました。
・王宮まで10メートルの所に建つ、大きくて贅沢で空虚な家に住みました。
・我儘な貴族の子弟たちと馬鹿騒ぎをして、ナイトクラブから何度も追い出されました。
・果実の腐臭のような妖気を放つ恋をしました。
・愛に似た一時の気まぐれもありました。
・紳士面をしたビリオネアが、陰で汚ない臓器売買に関わっていたことを知った時、彼の顔を平手で張り倒しました。
・自分がどれだけ恵まれているかを知らず、不平不満ばかり漏らす人の頭上に槍が千本降る様子を想像して、飛散する血で新しい世界地図を脳内で描いて楽しんできました。
・貧困地帯に逗留を余儀なくされた時は、仙人のようにムシャムシャと霞を食べて生き延びました。
・バクと同じくらい、夢もたくさん喰らいました。

色々経験したというのにまだまだ飽き足らなくて、そこら中にあるものを喰い散らかしてしまうのです。

もうたくさんと、ただ一言そう言いたいのだと思います。

ああ、誰か私を満たして。お腹いっぱいにして。

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▪️スウェーデン民謡
今宵のプログラムの中で、最も音数の少ない曲。ミニマルの極地の、つま弾くような。
しかし、この胸苦しくなるほど美しいメロディを奏でるためには、技術を尽くした指先の繊細なコントロールが必要である。そして北の国、スウェーデンの独特なメランコリーに満ちた旋律を、感情に任せるのではなく、あくまで内的に制御して表現しなくてはならない。

最もミニマルな音楽で、飽食を訴えることが出来るのか。

テーマの真逆でテーマを表したい癖が抜けないまま、七つの大罪のグランドフィナーレを迎える。

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(写真提供:Kazunari Matsuda)

▪️F. ショパン:幻想即興曲

その昔、飽食が過ぎて吐き気を催すような、忌わしく禍々しいまでに美しい恋愛沙汰があった。当時、正気と狂気の狭間で書いた「顔のない女」という散文をそのまま掲載する。

窓から外の風景に目をやっているように見えて、女の瞳は何も映していない。白昼の列車の中、迂闊にも昨夜の記憶再生ボタンを押してしまったからだ。

荒い息がおさまる前に、男は再び手にした彼岸花の束で女の体を激しく打擲(ちょうちゃく)し始めた。朱が散る。打たれている女には、首から上がない。一体どこに置き忘れてしまったのか。

この不恰好な花の猛毒が全身に回って死ねばいい、と顔のない女は醒めた恍惚の情を浮かべながら願う。白蠟のような死体に散る朱はさぞ美しかろう。そしてその朱色は男の脳裏に蛆のように這い拡がって、やがて残像となって一生消えぬ痣となろう。

・・・今にも体中から体液が漏れ出そうになるのを、前の座席に座るこの若い見知らぬ男は知る由もない。膝から這い上がる震えにジッと堪える。

その夜、女は唇にも指先にも紅をつけない。香だけはごく控えめに耳朶につけてみたが、鋭敏になり過ぎた嗅覚がその匂いを酷く嫌って、急いで洗い流してしまった。

蜻蛉の羽ほどに薄い絹が肌に纏いつく感触さえ、もはや煩わしい。

ため息というのは口からのみ吐き出されるものではない。そんなことも知らずに虚ろに生きていたあの頃に、戻れるものなら戻りたいと女は思う。

女の体は死後硬直の状態を経て、やがて今度は腐り始めた桃の果肉と同じにぐにゃぐにゃとどこまでも柔らかくなってゆく。男は容赦なくその果肉の上を土足でずぶずぶと歩き回る。桃は最後の芳香を悲鳴のように放ち、部屋はどろりとした香気でむせ返り、ほとんど息もできない。

やがて果肉は腐肉となり、腐乱して四散して、あとには何一つ残らない。静寂さえも。

種は、種はどこへ行ってしまったのだろう。

男の目から狂気が剥がれ落ちてゆく。女をまるで世界で最も無意味な陶器の置物のように無機質に見下ろし、身じろぎもしない。

女の体に無数のひび割れが入り始める夜明け、美しく張った男の鼻翼を下から眺めながら、この男をいつか刺すやもしれぬという歓喜の予感に女はうち震える。
優雅な幻滅。このような類の幻滅に対して女は泣いたりしない。痴人のふりをして嗤(わら)うのみだ。ましてや女には顔がない。顔のない女というのは喉をぶるぶる震わせながら絹を裂くような声で嗤うそうだ。どうか転生だけはしませんように。宗教を持たぬ女の叫びは神か仏に届くのか。


・・・あれだけ強く否と願ったのに、過去の記憶とともに女は転生した。どれだけの罪を犯したら、これだけの業を背負わねばならぬというのか。全てが白昼夢であって欲しいと思う一方、傍らでガラス玉のように冷え冷えと見下ろす男の二つの目が、これは現実だと女の浅はかな願いを冷笑する。

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(写真提供:Kazunari Matsuda)

▪️F. クライスラー :愛の悲しみ

この歳になっても、未だ愛やら恋やらの問題で度々悶着を起こしている。
いや、この歳になったからこそ、余計に引き起こすのかも知れない。

悲嘆にくれる時間が無くなったことが、昔日の日々と異なっている。悲嘆にくれなくなったのではなく、ただ物理的に時間が足りないだけ。

この飽食の世にあって、私には何もかもが足りていない。まず、時間が。愛や恋に浸る余裕が。人々に対する気配りが。悲しんでいる友達に対する充分な優しさが。思いやりが。
前回の欧州ツアーの時、多くの人に言われた。エリコはなぜそんなに自傷的な生き方をするのかと。

私は激しく抵抗した。自傷的なんかじゃない。今を、この瞬間を、精いっぱい生きたいだけだと。

私の激昂を見て、彼らは口を閉ざした。そして、別の話題へと移った。

帰国してまもなく、今度は別の友人と激しくやり合った。私の生き方について、痛いところを明け方まで何度もアイスピックのように突かれ、歯ぎしりしながら帰途に着いた。

愛情からだったのだと暫くしてから気づいた。

しかし。

大事な友人からの豊饒なる愛情なのに、本当に欲しいものは愛情ではない私は、またその場にひとり、ぽつねんと取り残される。
メインディッシュは肉だと信じていたのに、出されたのは淡白な白身魚だった時のような、肩すかし。

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(写真提供:Kazunari Matsuda)

▪️W. A. モーツァルト:ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)第1楽章

記憶が定かではないが、モーツァルトを退屈だと言って世間を驚かせた音楽家がいたと思う。

私も退屈だと思う。その音楽家と同じ理由からなのかは分からないけれど。

ハプスブルクの絢爛と円熟、そこからの退廃と腐敗、散華を知っている、歴史の最先端の今を生きる者だからこそ、彼の音楽を退屈に思うのか、ただの趣味の問題なのか、彼の天才を見抜けない凡人のたわごとなのか。


天才が創造した山のような作品と日々向き合う一介のピアニストにとって、凡人であることに飽き飽きしているが、凡人には凡人の生き方があると思う。


非凡と凡の組み合わせを考えているうちに、「凡(おおよ)そ人と生まれては四苦八苦は必定にしてさけがたく」という経文を思い出した。


… 四苦八苦ではないと思う。私の選択した道は。

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(写真提供:Kazunari Matsuda)

▪️モルヒネ

女であることに飽きた。女の持つ生物学的な特性にも、思考回路にも、外見上の特徴にも、何もかも飽きた。

ファムファタル、「サロメ」のことを想ってみる。自分を愛さぬ預言者ヨカナーンの首が欲しいと、淫猥な目で自分を見る義父のヘロデ王に訴えたのも、結局は望まぬとも何もかもが与えられる飽食の環境に飽き飽きしていた状況での、ほんの女心の気まぐれからだったのかも知れない。
だから、男になりたいと思った。

男に生まれていたらこうしたであろうということを、全て試してみたかった。

だから、男になってみた。

そして、この短絡的で傲慢な決意の所為(せい)で、思いきりしっぺ返しを喰らうとは想像だにしなかった。

今宵の冒頭では、私をお腹いっぱいにしてと媚びを含んだ懇願をしたくせに。

手当たり次第の酒池肉林の末、私に突きつけられた現実は飽食の真逆だった。

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▪️ F. クライスラー :愛の喜び
3年半に及んだ、全7回のコンサートパフォーマンスシリーズ「七つの大罪」。
・7作品×7コンサート分 = 49作品

・曲間に、グレゴリオ聖歌「怒りの日」のアレンジを7作品×7コンサート分 = 49作品
計98作品を手中に収めたことになる。

「七つの大罪」の企画・原作者として、パフォーマーとして、またピアニストとして、国境を越えた数えきれないほどの協力者、支援者、共演者を得て、今日の日を迎えることができた。

憤怒(ふんぬ)、欲望、嫉妬、高慢、強欲、怠惰、そして飽食と、7つの罪に血塗られた3年半だった。いや、7つというのは象徴的な数字で、それ以外にも多くの負の感情と真っ向から対峙しなければならなかった。自分で創りあげた作品なのに、作品自身に自らが乗っ取られた時もあった。荒れに荒れた時もあった。

2014年に始めた当初から、私の環境も思考も生き方も在り方も、全てが変容し続けている。

満ち足りる・・・。満足することは一生無いように思う。芸術の道を行く限り。

副題に名付けた、〜カタルシスへの旅〜。

カタルシス(浄化)は、果たして訪れるのか。訪れて欲しい。

… そういう口のそばから、カタルシスなど寄って来るな、一生来るなと、芸術的飽和に達したことのない私を何者かがそう嘯(うそぶせ)る。
七つの罪を一巡して、元の木阿弥なのか。

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(Photo: Lisa Sawada Petersen)

 

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