Category: Concert Review

Concert Review Vol.4 “Evgeny Kissin”

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エフゲニー・キーシンが今年の10月に40歳を迎えると聞き、いささか驚きを禁じえなかった。

永遠の神童という印象が強くて、だからこそ不惑を迎える彼の演奏を今聴かねばならない、とチボリ交響楽団のプログラムに目を通しながら思った。

演奏会当日は既に予定が入ってしまっていたので、せめてリハーサルは聴けないものかと思っていたら、親切な音楽家の友人が粋な計らいを見せてくれたおかげで、コンサートホールのシートにそっと身を滑らせることができた。

キーシンの、見事に縮れたその特徴的な髪型は20年前も今も変わらない。

神童とは、「20歳過ぎればただの人」という、悪意のある、しかし当たらずとも遠からずといった古くからの格言と戦いながらその10代を過ごすのだろうか。

早熟の極致であったランボーは20歳になる前に『地獄の季節』を書き、それから2年後には早くも詩作を放棄。神童の代名詞と言えるモーツァルトも、その35年の短い生涯の中でそろそろ神童というには成長し過ぎた青年期にさしかかる頃、世間が彼に飽き始め、新たな神童に興味の対象が映っていくさまを焦燥感を持ってまざまざ感じたことだろう。

そんな中、キーシンのこの揺るぎの無さというのはどうであろう。2歳でピアノをはじめ、10歳でデビュー、12歳で初のレコーディング。それ以来、今日まで端正なスタイルを崩すことなく、音楽界を牽引し続けている。

彼には、コンクール入賞暦がない。それにも関わらず世界的に大成功を収めている稀有なピアニストである。

音楽家が (良くも悪くも) 腹が据わっているのは、早期の段階からコンクール生活を始め、成功と屈辱の狭間で揉まれ、逞しくなっていく所以というのも主な理由の1つと言えるだろう。

コンクール参加者の年齢上限はどこも大体30歳。それまで、音楽家はしのぎを削りながらレッスンと練習に没頭する。国際コンクールには、各国の音楽エージェントが若きスターとの契約に漕ぎつけようとやってくる。ジャーナリストも、翌日の朝刊の文化欄一面に載せる記事の内容を練りながらプレス用の席にずらりと並ぶ。

あまりの緊張に、舞台で失神するピアニストも出てくるほどだ。3次、4次と続く予選を突破し、セミファイナル・ファイナル・受賞者演奏会と、息つく暇もなく押し寄せるスケジュール。張り出される予選通過者の名前、無言のまま国に帰って行く者、家族への喜びを告げる電話、深いため息、難しい顔をした審査員。コンクール会場は、混沌で満ちている。

(政治色濃い、キナ臭いコンクールも存在すると書くのは蛇足か。)

このサイクルを10代後半から30歳にかけて繰り返してゆく。そして、神経を摩滅させ体の不調に苦しみながら幾つかの受賞暦を残しても、職業的に成功するとは全く保障されていない。どこの世界でもそうだが、音楽界も厳しい。

これがどこの音大・芸大でも見られる学生生活の過ごし方であり、キーシンのような例はごく稀だということを言いたいばかりに話が長くなった。

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(credit Sheila Rock)

私が最後に彼の演奏を聴いたのは、ベルリンフィルでのことだった。その日、確か教授が何かイヴェントを企画していたのだが、「ああ、今日はキーシンが弾くのだな。みんな聴きに行くのだろう。なら延期しよう」と言って、本当に延期してしまった。チケットはもちろん完売だった。

9日(木)の夜、彼はグリーグとショパンの両ピアノ協奏曲を弾く。1晩で2つのコンチェルトというのはかなり珍しいプログラムだ。彼がリハーサルに現れると、ホールの空気がすっと変わる。指揮者がタクトを構えた。オーケストラが息を詰め、ティンパニーが開始を告げた。

水無月の宵をキーシンの美しい手から紡ぎ出される音に包まれて過ごすのは、いささか贅沢に過ぎる。

牧村英里子

コンサート: 6月9日(木) 19時30分開演

http://www.tivoli.dk/composite-7970.htm?id=FA293735C89EF8E5C12575C300294538

Concert Review Vol.3 “影の無い女” at Operaen Store Scene”

第3回目はOperaen Store Scene での 『影のない女』 (シュトラウス) をレポート。

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(photo: via http://j.mp/luzJzi)

『夢遊病の女』、『薔薇の騎士』、『売られた花嫁』、『バッカスの巫女たち』、『恋の妙薬』・・・その名を聞くだけで、観劇への衝動を抑えかねる、というような魅力的な題名を関するオペラが幾つかあるが、リヒャルト・シュトラウスの『影のない女』はその際たるもの。

ドイツに6年以上住んでいたわりに、イタリアオペラを好み、ワグネリアン(ワーグナー狂)とはほど遠いところにいるのだが、ことリヒャルト・シュトラウスに関しては例外だ。

彼の『サロメ』、『エレクトラ』、『ダフネ』 などのオペラでは、その題材と彼の作曲法でしばしば見られる独特の不協和音進行が放つ官能性、そしてドイツ語の高潔で少しメタリックな響きが混ざりあっ て、更に恍惚とするような瞬間を生み出し、結果的に深い陶酔感を得られるのはイタリアオペラよりもシュトラウスを観劇した後のほうであったりする。

霊界の王の娘である皇后には影がない・・・。

狩りに出ていた皇帝は、美しい娘と出会い愛し合うようになり、結婚する。皇后には影がない。影がないために子供を産むことができない。娘を人間に奪 われたくない父王カイコバートは、毎月使者を送っては、娘に影のないことを確認する。今月もま た、皇后には影がない。王は安心する。なぜなら霊界の女と結婚した人間は、1年以内に子供ができないと石になってしまう。そうすれば、カイコバートは愛す る娘を取り戻せるのだった。或ることからこの事実を知った皇后は、影を買う旅に出る決意をした・・・。


Hugo von Hofmannsthal の台本になるこのオペラには、グリム童話に共通する残酷さがある。子供を産ませないようにと毎月使者を送る父親など、思わず目を背けたくなるような設定であるが、それゆえ内包するドラマ性は非常に深く、演出家によってどのようにも料理することができる。

演出は Kasper Holten の手による。40歳にはまだ間があるというのに、既にOperaenのアーティスティック・ディレクターの地位にある。 彼が演出する作品をデンマークの批評家たちが毎回こぞって絶賛するので、早く見なければと思うまま今日まで来てしまった。

指揮は主席指揮者の Michael Schønwandt。彼はベルリンシンフォニーオーケストラでも6年間主席を務めていた。

上演時間は3時間で、25分休憩が2回の3幕構成。約4時間、Operaen で贅沢な時間を過ごすことになる。日曜日の公演のチケットを手に入れ、ボートで Operaen に渡り、プログラムを受け取って開演までざっと目を通す。

幕が上がった。

まず、オーケストラピットに座る団員の数の多さに驚く。マーラーやブルックナーのシンフォニーを演奏する、と言われてもおかしくないほどの大編成。シュトラウス作品の特徴を決定付ける金管楽器奏者が、ずらりと後方に勢ぞろい。

舞台はといえば、背景に使われる斬新極まりないビデオ映像、縦に長いステージを利用した立体的舞台装置、そして高度なライティング技術が見事にシン クロし、類を見ないほどの高い3D効果を上げている。特に、キーワードである「影」をクリエイトする演出手腕の鮮やかさに息を呑まれる。

皇帝役の Johnny van Hal はオランダ生まれのスウェーデン育ち。ワーグナーはじめドイツもののレパートリーが豊かで、1993年よりデンマーク王立オペラでの公演を務めているとのことだから、ベテラン中のベテランと言ってよいだろうか。

皇后役の Sylvie Valayre は パリジェンヌ。バスティーユからほんの数歩といった場所で育ち、4歳のときに既に「舞台以外に自分の進む道はない」と決意したと語っている。

歌手については個人的にかなり好みがあり、自分でも面倒だと思うことがしょっちゅうあるが、この『影の無い女』に関して言えば、シュトラウスの音 楽、台本、演出があまりにも強烈な魅力を放出しているため、歌手たちについて今細かく書くことができないほど、総合的にこの舞台を楽しんだということに呆 然と気づく次第だ。

皇后、皇帝以外に、皇后の乳母、皇后と乳母が影を求めてゆく先の染物師、バラク夫妻が主なキャストであり、歌はもちろんのこと、演技力もかなり要求される。

途中、鍋の中で料理されている魚が、「胎児の歌」を歌うシーンがあるのだが、その歌声があまりにも透明なのが却って不気味で、一種凄惨ですらある。舞台裏に子供を配して歌わせるのだが、「お母さん、影をみて!なんて美しい!」という無邪気な歌詞と揺蕩(たゆた)うようなメロディーに、血の気がすーっと引くような感覚を覚える。

・・・少々筆が滑り、詳細に過ぎて不粋に思われる方もおられよう。シュトラウス独特の官能・退廃性は観て聴いて感じるもので、読むものではないのかもしれない。

オペラは歌手と子供たちの澄み切った歌で幕を閉じた。3時間におよぶ不協和音の旅のあと、シャープもフラットもつかない、素朴なハ長調で終わったのが象徴的であった。形而上的世界は存在する、そんな気持ちにさせられたエンディングだった。

リヒャルト・シュトラウスは第2次世界大戦後、非ナチ化裁判にかけられた。最終的には無罪の判決が言い渡されたが、80歳になって人類史上最悪とも 言われる無差別殺戮の一端を担った容疑で裁判にかけられ、法の制裁はなくとも社会的制裁を墓場に行くまで、そして行った後も受け続けたシュトラウス。しか し、彼の音楽から政治臭はしない。腐臭漂うような惨いシーンでさえ、どこまでも神秘的で妖しく,そして清冽だ。

オペラ、『影の無い女』は2011年6月14日まで、Operaen Store Scene にて公演。どうかお見逃しのないよう。

牧村英里子

Concert Review Vol.2 “an Evening of Ballet” at Det Kongelige Teater

第2 回目は、Det Kongelige Tetaer ( Gamle Scene ) での『an Evening of Ballet』 (Balletaften) をレポート。

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(photo: via http://bycollectiveminds.blogspot.com/2011/05/balletaften.html)

今秋公開予定のプロジェクトを一緒に進めているDet Kongelige Teater のダンサーが、「今やっているバレエ、面白い演出シーンがいっぱいあるよ」 と話していたのを仕事帰りのメトロの中でハタと思い出した。

ちょうどタイミングよく次の駅は Kongens Nytorv だ。扉の開くのを待つのももどかしく、王立劇場へ足を急がせる。急なことでドレスアップもしていないが、辛うじてメトロの中で、ピクシーグラスの大ぶりな ピアスに付け替えてきた。突然のパーティーやコンサートに備えて、いつも小さなジュエリーケースに入れて持ち歩くようにしているのが役に立った。

王立劇場の扉をくぐると、ムンとした人いきれ。かなり蒸し暑かったのでバーで冷たいドリンクをもらい、バルコニーに出てようやく人心地がついた。そ して、そっとまわりを見回す。音楽家の常として、客層が気になるのだ。通常のクラシックコンサートでは、若い世代をなかなか動員できないことが悩みの種の 1つ。しかし、ことバレエに関してはそうでもないようだ。絵に描いたかのような若い美男美女カップルたちが、重厚な劇場内部のあちこちで談笑している。明 らかにバレエを習っていると分かるティーンエイジャーたちも、両親に連れられて神妙にしている。

何も予習してこなかったので、プログラムを買い、開演までの間に目を通す。 “an Evening of Ballet (Balletaften)” では、3つの異なった時代からの3つのバレエが演じられる。以下、演目とコレオグラファーの名前を挙げておく。

”Le Conservatoire” by August Bournonville (1805-1879)

”Alumnus” (前半 Les Lutins, 後半 Salute) by Johan Kobborg (1972-)

”Etudes” by Harald Lander (1905-1971)

上演時間は、2回休憩を含む2時間20分。

主なキャストを挙げてみると、 Jaime Crandall がアメリカ人、Alexandra Lo Sardo がフランス人、Tim Matiakis がギリシャの血を引くスウェーデン人, Ulrik Birkkjær がデンマーク人、 Marcin Kupinski がポーランド人、そしてAndrew Bowman がニュージーランド人と、かなりインターナショナル。しかし、民族・国籍は違えど、バレエダンサーに共通する点は1つ、すなわちその圧倒的な肉体美だ。

ベルリン時代、国立オペラ劇場に仕事の関係でよく出入りしていたのだが、カンティーンで休憩を取る世界トップクラスのダンサーたちの横でコーヒーを 飲むのは、面映いような、居心地の悪いような、妙な気分がしたものだ。心臓が鼓動するのが透いて見えるほど、無駄なものが削ぎ落とされつくした肉体。骨の 1本1本や腱や筋肉といった、今まで意識に留まらなかった個々のパーツがこんなに美しいとは、と開眼した瞬間だった。

プログラムを見ながらつらつら考え事をしているうち、幕は上がった。ここからは、ビジュアルから得られる快感に、思いきり身を任せることにする。

チェロの独奏で、”Le Conservatoire” が始まる。舞台設定は1800年代のバレエ学校。ソロ・Corps de Ballet あわせて20人、それに子供たち8人が加わり、時にソロ、時に一緒になって、ダンス教師に次々と披露してゆくという演出。女性の衣装はクラシックな白の チュールドレス。男性は袖の膨らんだシャツにぴったりしたヴェスト。

すまして立っている教師役をよく見れば、1ヶ月ほど前にコンサートで話した Jean-Lucien ではないか。あの時はニットキャップを被っていたのだが、今夜はエレガントな衣装に身をつつみ、生徒たちに鮮やかなお手本を見せている。変われば変わるものだ。

オーケストラは Det Kongelige Kapel。コンサートマスターの Lars Bjørnkær のソロがとてもよかった。彼のストラディヴァリから放たれる色彩豊かな音色が劇場内を満たす。なかなかあんな風にオーケストラの中では弾けないものだ。コンプリメンテ!

休憩を挟み、いよいよ “Alumnus”。こちらは、デンマークの鬼才、Johan Kobborg による振付け。これはまさに今夜のハイライト中のハイライトだった。

“Alumnus” の前半 (Les Lutins) は、ピアノとヴァイオリンの演奏で、2人の男性ダンサーと1人の女性ダンサーによってパフォーマンスされた。衣装は3人ともハイウェストの黒パンツに、白 のブラウス。シンプルでシックだ。女性は首に赤のタイを巻いている。コミカルな動きが、H.Wieniawski と A.Bazzini のテクニカルな曲に完璧にマッチしており、観客を湧かせた。

そして、後半の “Salute” では、Jacob Kobborg の演出家としての才能が細部にまで冴えに冴え渡り、ほとんど爽快ですらあった。特に、男性陣のための振付けが本当に素晴らしく、また、ダンサーたちの、踊 りは言うに及ばず、演技力の高さにも目を見張る思い。彼らに対する惜しみのない拍手が長く鳴り止まなかった。

この後の “Etudes” は、先ほどの演目を観たあとでは少々蛇足の感があったのは否めない。筆を抑えるとしよう。

真っ直ぐメトロで帰るのも味気なく、途中まで歩いていくことに決めた。橋を渡りながら、 過去に見てきたバレリーナたちの厳しいレッスン風景や、コンクールでの悲喜こもごも、さらには自分の来し方などが断片的に頭をよぎっては消えてゆく。華や かなものを観劇したあとにしばしば訪れる、粛とした静寂・孤独。

Det Kongelige Teater のダンサーたちの定年は41歳だ。30代前半ですでに「自分はもう若くない」という彼ら。誰よりも高く跳びたい、誰よりも軽やかに舞いたいと願いながら、 ひざの故障、足の手術に泣き、集中と緩和の連続を絶え間なく強いられる職業。そんな中、黙々と稽古に励み、泰然とした態度で観客を魅了し尽くす彼らに、ど れだけ教えられ勇気付けられてきたことか。

言葉のない世界で、言葉以上のものを伝えるバレエ。どうか、ご観覧いただきたいと願う。

an Evening of Ballet (Balletaften)”  公演は5月19日まで

牧村英里子

Concert Review Vol.1 “Madame Butterfly” at Operaen Store Scene

第1回目は Operaen Store Scene での『マダムバタフライ』 (プッチーニ) をレポート。

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(photo:Det Kongelige Teater ホームページより)

2010年12月3日より上演開始ということで既にご覧になられた方もいらっしゃると思うが、実は去年私のコンサートで演出を手伝って下さったChristian Friedländer 氏が総合舞台演出をされるというので、個人的にとても楽しみにしていたオペラなのだが、ようやく行く機会に恵まれた。

日本は長崎が舞台のこのオペラ、「健気で耐える可憐な日本女性」 という印象を全世界に知らしめるに大きく貢献した作品である。数年前、イタリアの、とある町にコンサートで行った際、地元の女性に 「オー、ジャポネーゼ!マダムバタフラーイ!」 といきなり抱きしめられたことがある。都市部ではもはやそんなこともないだろうが、こんな風に美しき勘違いによって日本女性を熱く見つめてくれるマンマ達 がイタリアの田舎にはまだおられることを、申し訳なくも有り難く思った次第である。

さて、オペラは歌手たちの実力・美貌は言うに及ばず、衣装・演出も、その作品の出来を決定的にする重要なエレメント。私が学生生活を送ったベルリンは、世界でNo.1とも言われるほど前衛的で過激な演出で有名なのだが、ベルリンの3つのオペラ劇場の1つ、コミッシェオーパーでのマダムバタフライは見ものであった。

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(photo: via http://j.mp/jZ1O2J)

どこかの場末のキャバレーのような設定。安いソファセットとけばけばしいネオン、それに身を持ち崩したスリップ姿のオネエサンたち。そして肝心の蝶 々さんは、丸々としていて (と言っては大変失礼だが)、愛の末に自刃するとはなかなか思えぬ健康的な歌手によって演じられた。

こんな男性のどこに惚れたのかと呆れるほど自堕落なピンカートンとのやり取りが1幕であり、2幕の頭にマダムバタフライはかの有名なアリア、”ある 晴れた日に” に挑む。そしてクライマックスに近づくと、彼女は手にしていたコカコーラの瓶をやにわに逆さにし、頭からドバドバと掛け始めた。

ポルノ、ヴァイオレンス、キッチュな演出に慣れきったすれっからしのベルリーナー達は 「またか」 といった感じで反応薄だったが、真面目な批評家 たちには噴飯ものだったのか、翌日には辛らつな批評が各紙の文化欄にデカデカと掲げられた (私はといえば、はじめから終わりまでただニヤニヤと意地悪く楽しんでいたのだが)。

前置きが長くなったが、Operaen でのマダムバタフライは前評判もよく、何枚かの写真でも衣装やメイキャップの素晴らしさが十分に伝わったし、何より Christian の演出家としての才能には前々から敬服していたので、今回ようやく行く機会を得て期待は高まるばかりだった。

幕が上がると、そこに6角形・7層のピラミッド型ひな壇が現れた。縦に長いオペラハウスでは、空間を立体的に利用するための舞台構築は最重要項目の1つ。そのひな壇の周りを北斎の富岳36景からの転写が何枚もほどこされた天幕が半円型にぐるりと取り巻く。

さて、ひな壇の効果が最大限に生かされるのが、蝶々さんが10数人の女性とともに初めて舞台に現れる場面。彼女たちがゆらゆらとかんざしを揺らしな がら、長い袂を引きずりつつ壇を上がっていくシーンは、まるで生きた5人官女達やお雛様がひな祭りの準備を始めたかのように艶やかで、幻惑とでもいうのだ ろうか、視覚から強い酔いがまわる感覚にしばし陥る。

ではコスチュームはどうであったか。これが、本当に素晴らしかった。日本人の私は、海外で “日本モノ” という謳い文句を見ると、途端に用心深くなる。これまで観劇してきたマダムバタフライでも、他のアジアの衣装と混同したマガイモノであったり、下品なテロ テロした化繊の長襦袢みたいな衣装で、がっかりすることが多かった。

だが、Operaen のプロダクションは、まるで Dior を手がけるジョン・ガリアーノのショーのように独創的で、こぼれるような色彩美、なおかつ “日本的” というはなはだ曖昧な、ほとんど感覚的な要素もしっかり組み込まれており、ビジュアル的な満足感はたっぷり得られる。

このオペラはご存知の方も多いと思うが、ほとんどポップメドレーのように誰もが知っているメロディーがそこかしこに散りばめられている。さくらさく ら、越後獅子、宮さん宮さん、星条旗よ永遠なれ、君が代。Wikipedia であらすじを調べてみると、”基本的には、アメリカ海軍士官ピンカートンに騙されて弄ばれた挙句に捨てられ、自殺する気の毒な大和撫子の話” と 身も蓋もない書き方で、思わず笑ってしまったが、 悲恋というのはドラマになりやすく、オペラには格好のテーマ。トスカ、椿姫、ラ・ボエーム、カルメンも然り。だが、たまには思う存分泣いてもいいではない か。

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休憩を挟み、第2幕。前半とは打って変わり、蝶々さんは暗い色調の衣装を纏い、ピンカートンの再来日をひたすら待ちわびる。結婚の際は15歳だった ので、3年後の今は18歳か。舞台には和紙で作られた巨大なランプが吊るされている。あまり大きな声では言えないが、これだけで何百万というお金が制作費 として費やされたとか。このランプがクライマックスで衝撃的な効果を挙げることになるのだが、これは舞台を見てのお楽しみということで、ここでは控えるこ とにしよう。

2時間半のショーを堪能し、バックステージに行って出演していたミュージシャン達と談笑。つい5分前までバリトンの美声を轟かせていたアメリカ長崎 領事がうろうろと仲間を探していたり、蝶々さんの子供役の男の子が眠そうに両親に連れられ帰ってゆくのを横目で見るのも楽しい、活気溢れるバックステー ジ。ヴァイオリニストの友人が 「今日の蝶々さん役のソプラノ歌手、最後の瞬間には感極まって毎回泣くのよ」 と言っていたのが耳に残った。可憐でしかも強い蝶々さんを2時間半、何度も演じ抜くのは相当強靭な精神を持っていなければ難しいだろう。頭が下がる思い だ。

さて、第2回目は Det Kongelige Teater でのバレエ、”an Evening of Bellet” をレポートします。

牧村英里子

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