Category: コンサートパフォーマンスシリーズ「七つの大罪」

「七つの大罪」Vol.3 嫉妬編 プログラムノート其の2

L.v. ベートーヴェン: ピアノソナタ第23番 ヘ短調 Op.57「熱情」

 

ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンすなわち楽聖ルートヴィヒの父はアルコール依存性であった。ヨハンはアルコールがもたらす魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界に迷い込んで、ついには宮廷の職を失うまでに到った。

 

アルコール依存性の中で最もよく知られた症状は家庭内暴力である。父ベートーヴェンは妻や息子たちをことある毎に殴った。理由はなんでもよかった。妻の作る夕食のジャガイモが固茹ですぎる、若しくは柔らかすぎる、外で犬が吠えた、息子ルートヴィヒのピアノの練習量が少ない…。

 

彼の暴力に、家族は恐懼(きょうく)した。何がきっかけでスウィッチが入るか分からないので、予備の仕様もなかった。

 

アルコールで頭が侵されているわりに抜け目のない父は、早期の段階からルートヴィヒの天才性を見抜き、アルコール同様、彼の才能に猛烈に依存し始めた。妻が亡くなってからは、息子たちに対する暴力は手をつけられないほど激しさを増した。

 

ルートヴィヒは父を憎んだ。その憎しみは憎悪よりさらに強い感情で、既存の形容詞では表しきれないほど憎しみだった。少なくとも、ドイツ語の辞書には載っていない類いの強烈な感情。

 

否、あった。

 

それは、おそらく「殺意」である。

 

ルートヴィヒは、一刻も早い父の死をただひたすら願った。馬車に跳ねられてもいい、川に落ちて溺死してもいい、肝臓が腫れ上がってひどい黄疸に見舞われて、のた打ちながらの病死もいい。とにかく、目の前から消えてなくなって欲しかった。

 

私も、スウィッチが入って暴れ狂う近親者を一度ならず相手したことがあるが、ある時は持っていたアイスピックで刺してやろうかと衝動に駆られたことがある。怖ろしい話に聞こえるが、彼岸を渡った者の相手をするには、こちらもまた夜叉にならざるを得ないほど壮絶な感情のうねりを経験することになる。

 

不出来な2人の弟たちにも憎しみを感じた。毎朝、ルートヴィヒはかっきり60粒のコーヒー豆を数えて、コーヒーミルの中に放り込む。それをガリガリ挽きながら、彼は歯軋りした。コーヒーを挽く音と歯軋り、そして長らく続く耐え難いほどの耳鳴りが狭苦しい部屋で不協和音を奏で続けた。

 

耳の不調はやがて難聴へと悪化し、ついには音の無い絶望の世界へとルートヴィヒを突き落とした。それに加えて、慢性肝炎、黄疸、大腸炎、皮膚病、リウマチ熱が絶えず襲いかかった。

 

彼は無音の底にあって、次第に死を願うようになった。「音楽家」から音を引くと「楽家(楽しい家」が残るかと言えば、全くそんなことはなく、むしろ逆であった。幸い、父はもう死んでくれていたが、不出来な弟はのうのうと生きていて、ルートヴィヒを悩ませ続けた。

 

幸せな家庭への羨望。

 

ただただ平凡で健全な家族が欲しかっただけなのだ。そして、聴力。殆どの者たちが持っているこの2つを何故自分は与えられなかったのか。

 

自ら命を絶つ決意をしたルートヴィヒは1802年、遺書を認める。

 

ハイリゲンシュタットの遺書。

 

胆汁が上がってくるのを飲み込みながら、ルートヴィヒはペンを走らせつつ思わず慟哭した。自分の慟哭の声さえ聴こえないことに更に絶望した。

 

… これはベートーヴェンがまだ、交響曲第5番「運命」や、クロイツェルソナタ、熱情ソナタ、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」を書く前の話である。一度死にかけた男は、その苦悩、恨み辛みを爆発的な芸術の力に昇華させ、おそらく彼を超える音楽家はこの先も存在するまいという唯一無二の楽聖となった。

 

1827年3月26日永眠。満56歳。

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「七つの大罪」Vol.3 嫉妬編 プログラムノート其の1

F. ショパン: ノクターン第8番 変ニ長調 Op.27-2

1837年7月7日、イギリス旅行に対するショパンの査証(ビザ) が下りた。

その査証を見るともなしに眺めながら、ショパンは額にかかる前髪を物憂げに搔きあげて、3度ほど力のない空咳をした。

年齢: 26歳、身長: 170cm、髪: ブロンド、額: ノーマル、眉毛: ブロンド、瞳: 灰青色、鼻: ノーマル、髭: ブロンド、顎: 丸型、顔: 卵型、肌: 白色

付け加えて言うなら、体重は45kgであった。

他人に自分はこう映るのか、とショパンは自嘲して笑った。この顔が卵型とは!

そして、これだけの身体的特徴を問うておきながら、健康状態についての質問がないのも笑止に耐えなかった。

 

彼の家系は当時の死病である肺結核に取り憑かれていた。ショパンが愛してやまなかった妹のエミリアも14歳の幼さでその病に命を奪われていたし、ショパン自身はその病に罹っていることを断固認めようとしなかったが、絶え間ない空咳は止めようがなかった。

ショパンは健康を羨んだ。もっと正確に言えば、健康な人々を妬んだ。例えば、パリで自分と音楽家としての人気を二分している1歳歳下のフランツ・リストの強靭な肉体と体力を。

ショパンがこれから9年の長きに渡って愛憎の関係を持つことになるジョルジュ・サンド夫人も頑健であった。彼女はショパンより7歳も年長であるにも関わらず、彼の方が先に死ぬことを確実に予期してよくこう囁いた。

「貴方が死ぬ時は、私の腕の中よ」

サンド夫人がこう言いながら彼の額に唇を押し付ける時、ショパンはほとんど歓喜と呼んでよいセンセーションに襲われた。彼女のまろやかな母性そのものの腕の中で死ぬために生まれてきたのだと、恍惚に浸るときが何よりの幸福であった。

ジョルジュ・サンドが予期した通り、彼は1849年、39歳の若さでこの世から去ることになる。しかし、死に場所は彼女が固く約束した腕の中ではなく、パリの自宅のベッドの中であった。

サンド夫人の姿は臨終の席にはなかった。近しい友人たちが涙を堪えながら彼の周りを囲んでいた。

「あれほど強く約束したのに!」

激しく喀血しながら、ショパンはベッドの中でのたうった。

意識は明瞭であった。自分の命は風前の灯火であることも分かっていた。この忌むべき死病に取り憑かれた短い命。健康に焦がれ続けた日々。

しかし。

彼はゴボゴボと血を吐きながら思った。我が勇壮の作品たちは、生き続けるであろう。例えば祖国ポーランドの誇りそのものである英雄ポロネーズ。ピアノソナタ第3番。そして、東洋の真珠玉の如く崇高な珠光を放つ、プレリュード、ワルツ。ああ、何にも増して、ノクターン。ノクターンとは「夜想曲」の意味である。夜を想う曲…。

あの、余人にはなせぬ強烈な個性を放つ作品群を書き上げたことが、サンド夫人のように自分に不実であった人や、呪われた病に対する復讐の完遂であるように思われた。

オーロール!

ショパンは胸の中でサンド夫人の名を絶叫した。自分が死にかけている一方で、彼女は今もどこかで情熱を周囲に撒き散らしながら生き生き暮らしていることが堪らなく妬ましかった。

オーロール!!

今度は声に出して、彼女の名前を絶叫しようとした。その瞬間、この紙のようにやせ衰えた身体の一体どこに、と彼の友人たちが恐怖するほど大量の血が喉から溢れた。チャルトリスカ公爵夫人がその血を何枚ものタオルで拭った。

 

この大喀血後は、彼はもう何も感じなくなった。しかし意識はまだあった。ポトツカ夫人に変ニ長調の夜想曲を弾いて欲しいと頼みたかったが、声が出なかった。

 

午前2時。喀血の海の中、人間は夜に生を得て、また夜に死にゆくのだ、何故だろうと彼は想った。そうして、部屋の片隅でジッと「その時」を待っていた死神がゆっくりとベッドに近づいてくるのを見ると、自らその冷たい手に絡め取られていった。

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“Seven Deadly Sins” Vol.3 ENVY on 30.01.2016

Concert performance series “Seven Deadly Sins” Vol.3 ENVY will take place on 30.01.2016 in Kobe, Japan!

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コンサートパフォーマンスシリーズ「七つの大罪」Vol.3 嫉妬編が2016年1月30日(土)、18:00より開催されます。「男女男」と書いて、

嬲(なぶ)る….。嬲り嬲られるのは果たして男女か、男男か。また、若さへの嫉妬、成功に対する嫉みなど、様々な嫉妬がこの世には存在します。人間の感情の中で最も御し難いこのエモーションを、七つの全く違ったアングルから掘り下げていきたいと切望しています。その先に見えるものが果たしてあるのか、それとも無か。胸苦しくなるほどのインテンションとパフォーマンスで、普段皮膚1枚の下に隠してある嫉妬を舞台上では表現し尽くしたいと思っております。

ご来場を心よりお待ち申し上げております!

【日時】

2016年1月30日(土)  18:00開演(17:30開場)

【場所】

うはらホール

【チケット】

一般: 3,000円   学生: 1,000円

e+ (イープラス): http://would.jp  または

mail: 77deadlysins77@gmail.com(牧村) まで

マネジメント/お問い合わせ: KONTA Inc.

tel: 0797-23-5996

www.konta.co.jp

【アーティスト】

佐久間聡一(ヴァイオリン)
西本淳 (サックスフォン)
牧村英里子(ピアノ)

みなさまのご来場を心よりお待ち申し上げております!image

 

Photo and graphic: Taeko Kasama

「七つの大罪」Vol.2 欲望編プログラムノート其の7

【私が引き起こした小さな残酷のお話】

M.ガーヤン:おはしのヴァリエーション

子どもの頃の私はヒドイじゃじゃ馬である反面、物事をわりと気むづかしく考える傾向にあったので、子どもであることを純粋に楽しめずに過ごしてしまった。もったい
ないことだ。

生まれて数年しか経っていないくせに、その当時は「死」が今よりずっと身近にあって、私を絶えず悩ませた。

祖父が、世界と日本の偉人伝集を何十冊と買ってくれたので、私はピアノや机の下に潜ってそれらを読み耽けった。偉人たちの前人未踏の偉業は素晴らしくて、私は感動した。しかし、彼らはやがて寿命が尽きて死んでいった。1人の例外もなかった。

一方で、両親は歴史人物伝の全集を買ってくれた。英雄や独裁者たちは革命を起こしたり、陰謀を企んだり、征服したり逃亡したりを繰り返した。そして最期は暗殺されたり、死刑にされたり、またはベッドの上で平和に天寿を全うしたりした。死に方は様々だったが、とにかくみんな間違いなく死んでいった。

生命を持つものは、遅かれ早かれやがてこの世から消えてなくなるのだ。

偉人たちの人生は私を熱狂させたが、栄華のあとの老いや転落、その帰結としての死は本当に恐ろしかった。

この恐怖は多分、私が覚えている一番古い記憶に起因するのかもしれない。

2歳の時、私は両親に連れられて近くのお祭りに行き、金魚すくいをした。まだミートローフサイズの私はきっと不器用に金魚掬すくいの網を扱ったのだろう。1匹も釣れないまま、あっという間に紙を破ってしまった。しょんぼりする私を見て、
屋台のおじさんは2匹の小さな金魚をビニールの袋に入れて、私にくれた。

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(写真:蜷川実花)

家に帰ると、母は洗面所のシンクに栓をして、ビニールの中の金魚と水をそこに離した。その間に、父は金魚鉢を買いに行った。

私は台の上にのぼって、シンクの中を泳ぎ回る金魚をジッと見ていた。チョロチョロ泳ぐ金魚は本当に可愛くて可愛くて、この2匹が自分のものになったことが嬉しくて仕方がなかった。

・・・と、ここで2歳の私の衝動が、この喜びをめちゃくちゃにしてしまう。

何を思ったか、次の瞬間、私はシンクの底の栓を抜いてしまうのである。

シンクに小さな渦が巻き、赤い小さな2匹の金魚はあっという間に暗いパイプの中に飲み込まれてしまった。後には怖いくらいの静寂だけが残った。

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(写真:蜷川実花)

私は台の上に呆然と立ち尽くし、シンクの真ん中に空いたぽかりと黒い穴を凝視した。赤い2匹の金魚は行ってしまった。私には、自分が金魚の命を奪ってしまったことがはっきり分かっていた。自分の小さな手がシンクの栓を気まぐれに引き抜いたことで、あの可愛い生き物は暗い暗い世界に永遠に吸い込まれていったのである。

恐怖と悲しみで火がついたように泣き始めた私を、どうやって両親が宥め諭したかは全く覚えていない。

こんな出来事が人生最初の記憶として残っているだなんて、私もツイテナイ。

しかし、30余年を経た現在。

私はかなり逞しく生きている。その間には、素晴らしい師友との邂逅や芸術との出会い、修羅場や近しい人の死、その他ありとあらゆる種類の感情にまつわる出来事を経験した。

金魚を吸い込んだ暗い小穴は、未だ頭の片隅にあるかもしれない。だが、大人になった今はそんなことより日々生きることに夢中である。博打のような毎日だ。だが、賭けるもののために周到に案を練り準備して、そのたびに自分を燃やし尽くす。そのことで小さな生死を繰り返しているせいか、死は昔のように恐怖をともなって私を襲って来なくなった。

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(写真:蜷川実花)

「おはしのヴァリエーション」は、子どもの頃に誰もが一度はピアノで弾いたことのある曲がテーマになっている。右手と左手の人差し指1本ずつで弾く様子が「おはし」のように見えるところから、この名前がついたのだろう。

子ども時代を存分に楽しめなかった自分のために、今日は思いっきりふざけ散らしながらこの曲を弾きたい。ピアニストとバレリーナの、罪のないイタズラ心とノスタルジアをお楽しみください。

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追伸:好奇心の赴くまま、偉人たちの人生最期の言葉を集めてみました。

・なぜみんなそんなに俺を見ているのだ
若山牧水(詩人)

・私が死んだら、会いにこないでほしい
マリー・ローランサン(女流画家)

・僕はこんなふうに死んでいきたいと思ってたんだ
ヴィンセント・ファン・ゴッホ(画家)

・もうすっかりいやになったよ・・・
ウィンストン・チャーチル(イギリス元首相)

・むこうはとても美しい
トーマス・エジソン(発明家)

・今日が、私の人生で唯一の幸福な日です
マリア・テレジア(ハプスブルク君主国両袖、マリー・アントワネットの母)

・(注射をしにきた医者に向かって)もう結構です、そっとしておいてください
マリ・キュリー夫人(物理学者、科学者)

・もっとシャンパンを飲んでおけばよかった
メイナード・ケインズ(経済学者。20世紀における最重要人物の1人)

・あっちに行け、出て行け!臨終の言葉なんてものは、充分に言い足りなかったバカ者達のためにあるんだ(家政婦が彼に「臨終の言葉を言ってください」と頼んだときにいった言葉。結局これが臨終の言葉になった)
カール・マルクス(哲学者、マルクス主義の創始者)

・(死の二日前、泣きながら妻に向かって)急に何だか悲しくなってきたんだ
国木田独歩(小説家、詩人)

・これでおしまい・・・
勝海舟(幕臣、のちに政治家)

✳︎✳︎✳︎
これでおしまい。

コンサートパフォーマンスシリーズ「七つの大罪」Vol.2 欲望編インフォ:

 http://www.erikomakimura.com/2014/12/七つの大罪vol-2「欲望編」%E3%80%80バレエ&ピアノ/ 

 

 

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