コンサートパフォーマンスシリーズ「七つの大罪」Vol.5 強欲編

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【Concert Performance Series “Seven Deadly Sins” Vol.5 GREED in Japan 】

コンサートパフォーマンスシリーズ「七つの大罪」Vol.5 強欲編は、2017年1月28日(土)、18:00より、兵庫県立芸術文化センター、神戸女学院小ホールにて開催されます。

Vol.1 「憤怒編」、Vol.2 「欲望編 」Vol.3「嫉妬編」、Vol.4「高慢編」を経て、罪もまた1つ重ねてのシリーズ第5回目となる「強欲編」を迎える運びとなりました。

強欲を象徴する生き物は「狐」。5匹の狐が死してなお毛を逆立てて、餌である小動物を狩ろうとする瞬間をとらえたものがポスターとなりました。実のところは自らが狩られて人間の首を飾る装飾品となってしまっているのですが、そのことに狐自身は全く気付いていない様子がシニカルに写し出されています。

支配者(ルーラー)となり全てを手に入れた者は、いつしか転落して身を追われたり、究極としては公開処刑が待ち受けている。コインがいつ裏返るのか。その瞬間の恐怖を心の奥底に隠しつつも、いったん強欲の網にかかった人間はそのまま突き進むしか道はないのか。

強欲編で演奏される7つの作品は、7つの様々な強欲の物語を秘めています。矛盾と混沌の只中にある21世紀の今、答えの見えないまま生きていかねばならないこの世界を、皆さまと共に音楽とパフォーマンスを通して直視する機会を共有したい。それだけを思い、渾身の力を振り絞って準備に没頭してきました。

強欲編の2時間、舞台の上で欲の限りを尽くす所存です。強欲とは無縁でありたい、しかし芸の道に於いては更なる高みを目指したいという激しい欲に絡めとられている私です。

牧村 英里子

 

【Program Note】
・F. ショパン: ワルツ第1番 Op.18 変ホ長調
私は30歳になるまではメインストリームをゆくクラシックピアニストだった。国内外の3つの大学で学び、山のようなレッスンやマスタークラスを受け、ヨーロッパ室内楽協会の会員となり、コンクールに次ぐコンクール生活を送った。1年に60回もの苦しい旅を経験した年もあった。7ヶ国語を自由に操る生きた百科事典のように知識が横溢した教授に師事し、レジェンドと呼ばれる大音楽家たちの横暴で気儘なレッスンに耐え、明け方まで続く拷問のようなインテレクチャル・マスターベーションを嘔吐する思いで聞き、いわゆる「正統派」と呼ばれる音楽の土台の土台を学んだ。

30歳の誕生日は、ベルリンからチューリッヒに向かう夜行列車の寝台の上で迎えた。翌日リサイタルを控えており、連日のリハーサルからの疲労で意識が遠くなりそうだった。

しかし0時になった瞬間、不思議なことに自ら縛りつけていた呪縛の縄が一刀両断に切り放たれた。

これからは、我が道を行く。王道などクソ食らえ。

清々しく傲慢に満ちた決意で、しかし茨の道の始まりでもあったが、下の段で寝ている男性の鼾が響き渡る中、あれほど幸せに満ちた誕生日はなかった。

今宵の一曲目、ショパンのワルツを私は王道の解釈では弾かない。これを作曲したショパンが聴いたら、眉をひそめるやも知れぬ。しかし、作曲家の意図などどうでもよいと思えるほど、私の演奏家としてのエゴは高まっている。「作曲家」対「 演奏家」のエゴのせめぎ合いは止まるところを知らない。

・J.S.バッハ: パルティータ第2番 BWV826より

バッハは生涯2度結婚し、計20人の子供を産ませた。1720年に最初の妻マリア・バルバラが死去すると、翌年アンナ・マクダレーナと結婚した。

敬虔なるクリスチャンで、音楽の父と尊称されるバッハは神に捧げる膨大な数の曲を書き(もちろん生活のためもあったが)、家庭では2ダース近い子供を作り続けた。

最初の妻は7人の子を産んだ後、35歳で急逝。後妻は13人産んだ。

13人…。

ところで話は飛ぶようであるが、私は人から「〜ist(イスト)」とカテゴライズされるのが大嫌いである。アナキスト、ソーシャリスト、サディスト、マゾキスト、アーティスト。ピアニスト、でさえ実はイヤである。

そして、特にフェミニスト。フェミニスト大国の北欧に縁がある割に、この言葉が肌に合わないこと甚だしい。それを超フェミニストである友人にバカ正直に告げたら呆れられてしまった。

「エリコ、あなたほどのフェミニストに私はあったことはないわ。だって、男の思惑には全く惑わされずに、やりたいことだけやって生きていってるじゃないの。」

…確かにその通りである。ただ、「惑わされずに」というのは間違いで、単に他人の思惑に気付いていないだけの話なのだが。

少々脇道に逸れてしまったが、私の最も愛するバッハの曲の1つ、パルティータ第2番を、男性の欲にノーと言えず、体力を消耗し尽くして出産し続けた女性の時代に思いを馳せながら弾いてみようと思う。イヤイヤながら、今夜限りの「フェミニスト」として。

・F. シューベルト: 楽興の時

「魔がさす」という言い回しがある。私にも1年に2度ほど魔がさすことがある。後から思い返せば大した「魔」ではないように感じるが、その時には1,000kmほど穴を掘って1世紀ほどそこに埋もれて過ごしたくなるほど身も世もない心地がする。

シューベルトにも魔は訪れた。雇用先に出入りする女中に誘惑され、当時名前を出すのも憚られた病気に罹ってしまい、一生その病に苦しんだ。

前述の通り、私には人生を狂わせるほどの魔がさしたことはまだない。しかし、「魔」は至るところに潜んでおり、魔と欲の交差する幻惑の場所にいつの間にか立つこともあるかも知れない。

一度ならその場所に置き去りにされてみたい、と密かに妄想がよぎる私は強欲な人間だと思う。

「楽興の時」は、フランス語で”Moments Musicaux”という。この”Moments”を「逢魔が時」と訳してはいけないだろうか。楽興の逢魔が時、と。
・I. ストラヴィンスキーへのオマージュ: 春の虐殺
(編曲: 牧村英里子)

指は10本しかないのに、この曲は一気に20音ほど掴み取らねばならない和音の連続である。ストラヴィンスキーの「春の祭典」は、もともと100人規模のオーケストラとバレエのために書かれた曲なので、たった1人で弾くには無理があり過ぎるのだ。しかし、今夜の私は欲に絡め取られた狂気のピアニストなので、やる。 「春の祭典」ではなく、「春の虐殺」として、やる。

殺すと書いて殺(や)るとも読むのだとふと思った。

私は昔、春の祭典をコンサートホールに聴きに行った時、その中でソロパートを弾いた或る音楽家の奏でる音色に恋に落ち、彼と白昼夢のような日々を送ったことがある。この曲には、太古の原始的な人間の衝動を激しく呼び覚ます何かがある。

・S. プロコフィエフ: バレエ「シンデレラ」より、ワルツ(舞踏会へ向かうシンデレラ)

元来私は氷河期に生まれたのではないかというほど古風な女である。と同時に、テロの危険に満ちた21世紀を世界中1人で旅しまくる女でもあり、前衛のアート界にも身を置いているので、好むと好まざるに関わらず、世界各国の一筋縄ではいかない海千山千の相手と渡り合ってきた、強きヤマトナデシコでもある(少々トウのたったナデシコだが)。

ありがたいことに、私は本当に素晴らしい女友だちに恵まれており、世界中に何百人と友がいるが、正直シンデレラのような古風ゆかしき性格の女性は1人もいない。持って生まれた純粋無垢と犠牲の精神のみで成功にありつくなど、今の世の中チャンチャラおかしな話である。みな、自力で死ぬほど働いて成功を収めている。

また、白馬の王子を夢見る女もいない。男という生き物をを心から愛おしく思っているが、同時に女は男を知り抜いている。白馬の王子を夢見るくらいなら、競馬場に行ってトチ狂ったように贔屓の騎手と馬を応援する方がよほどスリルに満ちている。

そして、靴。舞踏会に忘れていった片方の靴を手がかりに、シンデレラを探し出すなんて奇跡を起こす王子もこの21世紀にはそうはいない。否、皆無かも知れない。

なぜ強欲編に「シンデレラ」を組み入れたか。

古風と前衛の両極を極端に往き来する英里子のシニカルな性格の一端ををくみ取って頂けないだろうか。;-)

 

・アイルランドの伝説より

2016年、私は約30万キロを旅した。地球を7周したことになる。2002年にヨーロッパに渡ってからそれこそ何十もの国を周ったが、それぞれの土地での狂気のような体験は、芸術への血肉となって活かされているのか、若しくは私の精神をゆるゆると蝕ませているのか、答えが出せずにいる。特に2008年のリーマンショック、そしてそれに続くISの台頭以来の世界の狂い方は、生来陽気な筈の私を違う人間に変えてしまった。

2015年、あるヨーロッパの国でのリサイタル前のこと。私は毎朝早くに教会での練習を日課としていた。外気温は0度前後、湿度が高かったため、体感温度は実際よりずっと寒く感じる。

教会の扉の前にはいつも同じ男性が毛布にくるまって横たわっていた。明らかに難民の体(てい)だった。教会の扉の鍵を開けるために、私はどうしてもその男性を跨がなければならない。

人を跨ぐ。

これほど人間の尊厳を無視した行為はないような気がして、私は消え入りたい気持ちだった。体をずらして頂けますか、と声をかけることがなぜか出来ず、苦行のような思いで毎朝練習場に向かった。

今の時代、世の中のごく数パーセントの者だけが巨万の富を得て、残りの人たちの貧富の差は広まるばかりである。

アイルランドの即興曲には「クラスター(集団)」というピアノ奏法を使っており、それを弾くのは「ソリスト(個)」である私である。

2011年、シリアでは独裁者の暴政により騒乱勃発。難民が大量に西側諸国へ流れた。溺れる者は助けなければの精神が最初はあったが、難民受け入れ体制が全く整っていなかったため、すぐに受け入れを規制。果ては難民が身に着けている結婚指輪やなけなしの貯金まで没収するという法案まで通ってしまった。

権力を掌握した強欲な独裁者と、それにアジテイトされる民衆。個と集団。21世紀が未だ抱える人間の浅ましい本能の全てを、この美し過ぎるクラスターの民謡曲は問いかけてくる。

私は個であり、また集団にも属する。状況によってどちらにつくかを決めなければならない、確固とした信念に欠いた自分の弱さが哀しい。
・F. ショパン: ピアノソナタ第3番

ショパンのワルツの項で偉そうなことを書いたが、音楽家としてショパンを尊敬しない者があろうか。39歳で、若い頃から罹患していた結核による喀血の海の中をのた打ちながら死んでいった大天才。

私はショパンの享年と同い歳になった。

天才は早逝し、凡人の私はまだ生きている。

凡人はこれからも、生きて、生きて、生き抜く。

(プログラムノート: 牧村英里子)

 

【日時】
2017年1月28日(土) 18:00開演(17:30開場)

【場所】
兵庫県立文化センター 神戸女学院小ホール

【入場料】

一般: 4,000円 (当日4,500円)

学生: 3,000円 (当日3,500円)

【お問い合わせ】

mail: 77deadlysins77@gmail.co

または、

tel: 080-3862-4400
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