Vol.1 Faceless Woman
【Vol.1 顔のない女】
・窓から外の風景に目をやっているように見えて、女の瞳は何も映していない。白昼の列車の中、迂闊にも昨夜の記憶再生ボタンを押してしまったからだ。
荒い息がおさまる前に、男は再び手にした彼岸花の束で女の体を激しく打擲(ちょうちゃく)し始めた。朱が散る。打たれている女には、首から先がない。一体どこに置き忘れてしまったのか。
この不恰好な花の猛毒が全身に回って死ねばいい、と顔のない女は醒めた恍惚の情を浮かべながら強く願う。白蠟のような死体に散る朱はさぞ美しかろう。そしてその朱色は男の脳裏に蛆のように這い蠢(うごめ)き、やがて残像となって一生消えぬ痣となろう。
・・・今にも体中から体液が漏れ出そうになるのを、前の座席に座るこの若い見知らぬ男は知る由もない。膝から這い上がる震えにジッと堪える。
・その夜、女は唇にも指先にも紅をつけない。香だけはごく控えめに耳朶につけてみたが、鋭敏になり過ぎた嗅覚がその匂いを酷く嫌って、急いで洗い流してしまった。
蜻蛉の羽ほどに薄い絹が肌に纏いつく感触さえ、もはや煩わしい。
・ため息というのは口からのみ吐き出されるものではない。そんなことも知らずに虚ろに生きていたあの頃に、戻れるものなら戻りたいと女は思う。
・女の体は死後硬直の状態を経て、やがて今度は腐り始めた桃の果肉と同じにぐにゃぐにゃとどこまでも柔らかくなってゆく。男は容赦なくその果肉の上を土足でずぶずぶと歩き回る。桃は最後の芳香を悲鳴のように放ち、部屋はどろりとした香気でむせ返り、ほとんど息もできない。
・・・やがて果肉は腐肉となり、腐乱して四散して、あとには何一つ残らない。静寂さえも。
種は、種はどこへ行ってしまったのだろう。
・男の目から狂気が剥がれ落ちてゆく。女をまるで世界で最も無意味な陶器の置物のように無機質に見下ろし、身じろぎもしない。
女の体に無数のひび割れが入り始める夜明け、美しく張った男の鼻翼を下から眺めながら、この男をいつか刺すやもしれぬという歓喜の予感に女はうち震える。
・優雅な幻滅。このような類の幻滅に対して女は泣いたりしない。痴人の情をして嗤(わら)うのみだ。ましてや女には顔がない。顔のない女というのは喉をぶるぶる震わせながら絹を裂くような声で嗤うそうだ。どうか転生だけはしませんように。宗教を持たぬ女の叫びは神か仏に届くのか。
・・・・あれだけ強く否と願ったのに、過去の記憶とともに女は転生した。どれだけの罪を犯したら、これだけの業を背負わねばならぬというのか。全てが白昼夢であって欲しいと思う一方、傍らでガラス玉のように冷え冷えと見下ろす男の二つの目が、これは現実だと女の浅はかな願いを冷笑する。